「弁護士を呼べ!」
私どもの法律事務所の仕事は国内が殆ですが、時たま英文の仕事が舞い込みます。それで、英文への抵抗感を無くすために、日ごろからペーパーバックでミステリーを読むようにしています。昔はシドニー・シェルドンやアガサ・クリスティ、それから村上春樹さんお勧めのロバートBパーカーのスペンサー探偵シリーズでしたが、最近は、マイケル・コナリーのハリー・ボッシュ刑事シリーズを楽しんでいます。
アメリカの刑事物を読んでいると、刑事に踏み込まれた大物の容疑者が、「弁護士を呼べ!」と秘書に叫ぶ、すると、お抱え弁護士がすっ飛んでくる、というシーンがよく出てきます。こんなに風に簡単に駆けつけるのは、スタンバイしているからか、他の仕事をほっぽらかして来るのかしら、といつも不思議に思います。
それに、尊大な真犯人をかばう下僕のような役回りや敵役で弁護士が登場する、というストーリーが、アメリカのミステリーでは多い。ペリー・メイスン弁護士シリーズは、弁護士が真犯人を探し出し、無実の被告人を救う、という筋立てで、それなりに面白いのですが、リアリティが乏しい。マイケル・コナリーのハリー・ボッシュ刑事シリーズは、捜査の進行がリアルで迫力があり、ストーリーも二転三転と飽きさせません。ロサンゼルス市警察殺人課のはみ出し刑事ボッシュは、現場でも法廷でも被疑者・被告人の弁護士とよく衝突しますが、彼は一歩も引きません。何せボッシュ刑事は、法廷担当検事すら叱りつける程の、真実追求の使命感に満ちた捜査官です。弁護士ごときに怯んではいられない、というところでしょう。
アメリカでは、刑事弁護士として特化していなければ食べていけません。日本のように民事・商亊もやりながら、という訳には行きません。それだけ必死にパフォーマンスもするし、営業も必要でしょうし、依頼者のご機嫌を損なえば、いくらでも代わりはいるよ、と切り棄てられるでしょう。アメリカの弁護士は100万人といわれ、日本の弁護士2万人とはえらい違いで、厳しい競争に晒されています。弁護士業務は出発点に過ぎず、魅力の乏しい弁護士業務から早々に足を洗う、ということもしばしばで、多くの政治家が弁護士出身で、アメリカ大統領選挙を争っていたヒラリー・クリントンもオバマも弁護士です。
アメリカでは「元弁護士」の作家も大勢います。実務経験を基にリアルなフィクションが書けるという有利さがあるからでしょう。「推定無罪」のスコット・タロー、「法律事務所」のジョン・グリシャム、「ボーンコレクター」などリンカーンラ・イムシリーズのジェフリー・ディーバーなどのミステリー作家は、弁護士の経歴を生かして(捨てて?)作家に転身し、成功しました。マイケル・コナリーは弁護士出身ではありませんが、ボッシュシリーズ「シティ・オブ・ボーンズ」で登場する元弁護士の新人警官の女性に「民事弁護士だったが、退屈でつまらなかったから辞めた。」と言わせています。
今見直しが議論されていますが、年間3000人も司法試験の合格者を出せば、日本の弁護士も厳しい競争社会になりますし、痒い所に手が届く、というようなサービスを標榜する弁護士が出てくるでしょう。昔、香港のイギリス人弁護士(ソリシター)から、「日本では客が弁護士をカラオケに接待するでしょうが、香港では弁護士が客をカラオケに接待するのです。」と言われましたが、今後は日本もそうなるでしょう。
いままで日本では、尊大なのは、顧客ではなく弁護士の方だったがことが多いので、それは一時的にはいい傾向でしょうが、長期的には疑問です。その職業が総体として顧客に媚びれば、尊敬されなくなり、やがて、その社会的地位が下落するという悪循環に陥るのは、日本での「教師」や「医師」の世間の扱い方を見ればよく判ることです。「難しいことをやっている」という一般の人から見た職業観が無くなれば、当然尊敬は得られなくなります。教師は「ゆとり教育」が、医師は「患者様」という扱いやインターネットで溢れる医事情報や医療過誤報道が、彼らの地位を下落させました。
職業人である以上、法律の専門家で無い依頼者や、敵方・相手方に対し、ご機嫌取りや反省しすぎは良くないことです。人はそれほど全面的に善人でなく、暗い面・ずるい面があるのですから、マキャベリが指摘しているように、罠に騙されない「狐」の賢さと、狼を驚かす「獅子」の強さが必要でしょう。ボッシュ刑事を見習い、ミッションにこそ忠実にあるべきだと思うのですが、そのミッション実現は、平板な態度では達成しないでしょう。
さて私ですが、「弁護士を呼べ!」という場合、実際は、そうそう対応できるものではありません。でも、うちの若手のイソ弁は、直ちに駆けつけますので、顧問先の皆様、安心してお声を掛けてください。