麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

合気道的コンプライアンス

今の「法化」が進んだ日本社会では、企業はコンプライアンスを無視しては存続できません。私は、放送大学でコンプライアンスの講義を担当していますが、講義内容を「合気道的コンプライアンス」と表現しています。

私が武道学園(日本武道館)で合気道を習い始めてから、平成22年で12年目になります。なんとか二段を拝受して今もけいこを続けていますが、何と不思議な武道だ、といつも感心しています。というのは、合気道では基本的には「受け」の技しか稽古をしません。正面頭上から手刀で打ち込む攻撃に対しそれをどう防ぐか、拳で脇腹を突かれたらどうかわすか、腕を掴まれたらどう捌くか、という「受け」の稽古が延々と続きます。そして、受けの技は、攻撃を見極め、攻撃者の勢いを利用して自分を防御するために繰り出されるのです。

私がコンプライアンスを「合気道的」に理解すべきだと強調するのは、コンプライアンスは「法化社会」における危険排除の、いわば「消極的」な機能を発揮すべきものだと思うからです。つまり、行政やマスコミから「規制」「処分」「非難」を受ける「危険」から企業を「防御」するのがコンプライアンスなのです。

 

コンプライアンスは直訳すれば「法令順守」です。欧米ではcompliance to lawと文字通り「法令」の順守、と意味は明確なのに、わが国では、「法令の文言のみならず、その背景の精神まで順守・実践していく活動だ」として、英語なら企業倫理(Business Ethics)、倫理法順守(Ethics-Legal Compliance)である、と説明されます(高巌「コンプライアンスの知識」第2版 日経文庫)。

輸入概念なのに日本で解釈が拡大されるのもおかしな話ですが、その背景には三井物産や三菱自動車などの大企業で起きた不祥事があります。超一流企業で立派な規則や組織が出来あがっていて、社内での規程類の順守も徹底していたのに不祥事が発生してしまった、それは「倫理」不足が原因だ、とされました。企業不祥事を防ぐためのコンプライアンスには法令や規則類の順守だけではなく「倫理」の順守も求めるべきだされるようになったのです。

こうして企業のコンプライアンスには、「倫理」という精神的価値の実現も含む高度で広範囲な「積極的」な機能が求められるようになりました。しかし、これはいかにも日本的な現象であって、本来の「法化社会」に動きに逆行するおそれもあるのです。

 

「法化社会」とは、社会における法律での規制範囲が広がり法制度や司法制度への依存性が高まることを意味します。「共同体的紐帯に個人が縛られてきたというわが国の歴史的経緯を考慮すれば」日本社会の「法化」は望ましいことだと評価されています(服部高宏「法哲学(第2章 法のシステム)」有斐閣アルマ)。つまり、従来「集団的秩序」の下にあった日本社会の「共同体的紐帯」から個人が解放され、日本は「法」という「普遍的秩序」の下で個人が生活する社会へと変化してきているのです。

このような日本社会で「倫理観」を強調するのは、従来の「協調の和」や「武士道精神」など「集団的秩序」の下で称賛された「旧い美徳」に逆戻りする危険性があります。また、「倫理」という抽象的で、かつ各人ごとに基準が異なる価値観をコンプライアンスの内容にすれば「より高度なものが優れたコンプライアンスだ」という考えになりがちです。また不祥事発生自体は避けられませんので、その度毎に「倫理観不足だ」と指摘され、その要請が際限なく高度化し、遂には資本主義社会の「競争」すら否定するような非現実的な「聖人君子」的基準が唱えられかねません。

コンプライアンスが本来の機能を超えた「攻撃的」コンプライアンスとなって、企業を苦しめてしまいます。

 

このように「規程」より「倫理観」が強調されるのも、日本では「法律」が身近に感られて来なかったからでしょう。その象徴が「ルールは建前に過ぎない」とするマニュアル軽視です。企業が倫理観を重視するあまり「精神」を鼓舞するだけでは、むしろマニュアル軽視がさらに進行してしまって、この日本ではかえって有害無益です。倫理的な要請は、それを企業規模に見合った「現実的で具体的なルール」として定めるところまで行かなくては、コンプライアンスが合気道の「技」のレベルまで具体化したことにはなりません。

具体的な、守れるルールを「防衛」の観点から自分たちで創り、そのルールを現実に守っていくことがコンプライアンスなのです。