植物の謎「なぜ植物は私たちをリラックスさせるのか?」
コロナ自粛で散歩と読書が増えました。
事務所の近くには、千鳥ヶ淵緑道、北の丸公園という絶好の散歩コースがあります。
散歩の途中で見かける樹木の名前が何なのか気になって「散歩で見かける街路樹・公園樹・庭木図鑑」(葛西愛 創英社三省堂書店)をよく参照します。事務所の前の新宿通りで、春先から勢いよく半纏型の葉っぱを繁らせる街路樹はユリノキ、自宅の近くで初夏に白い花を咲かせる木はヤマボウシ、ヒメシャラ、ナツツバキです。
この図鑑のおかげで植物を見ながらの散歩は快適です。
そこでふと疑問がわきました。なぜ植物は解放感を与え、私たちをリラックスさせてくれるのか?
「植物は〈知性〉を持っている 20の感覚で思考する生命システム」(ステファノ・マンクーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ NHK出版)を読んで、その謎が解けたと思いました。
植物には「脳」はありません。植物も立派に知性を持っていますが、それは幹や根、枝葉組織それぞれが別々に備えているものです。
知性が脳に集中する人間と違って、植物は生体全体にバラバラに知性があって解放的な組織です。
このように植物は、集中的な「脳」組織を持たないから、私たちの脳を解放してくれるのではないか、そう思ったのです。
読書の時間も増えましたが、これは散歩と逆に脳を酷使します。大部のものに手を出してしまい、脳はくたくたです。
話題の中国SF「三体Ⅲ死神永生」(劉慈欣 早川書房)、ホロヴィッツのミステリー新作「Moonflower Murders」(ペンギンブック)は、どちらも長くて複雑、読書の道中は高い山に登るごとしです。
でもこれはまだいい方。堀内勉さんの力作「読書大全」(日経BP)は、脳の行く手に高い壁のごとく立ちはだかります。
確かにこの本はすごい。
私がやっと読み終わっただけの「精神現象学」(熊野純彦訳ちくま学芸文庫)について「へーゲルの精神一元論によって産業革命が準備された」と要領よくまとめ、大部かつ高価過ぎて私には手が出なかったフェルナン・ブローデルの「地中海」(全5巻、藤原書店)も、16世紀の地中海世界の姿を描き、歴史の波を「短・中・長」で把握することを提唱した、と内容も詳細に紹介しています。
「世界のビジネスリーダーが読んでいる」こうした古典から最新の科学書まで「名著」200冊が手際よく紹介されていて、驚嘆すべき本です。
しかし、ここでハタと考えました。
確かにこの本の知識は、将来の仕事や人生、社会や事業の改善に役立つでしょうが、あまりに高度で厖大です。
どんな優秀な人間の頭で能力の最大限までこの知識を蓄えても、AIによる知識の集積による予想の緻密さと広がりに比べると、いくら知識を詰め込んだところで、到底追いつけないのではないか。
そう考えると、疲れた脳がさらにクラクラします。
そういう時こそ散歩してみると植物の解放感を実感します。
脳は、散歩の途中で「脳のない」植物たちに囲まれてリラックスしています。
私たちの生活はほとんど「脳」に頼っています。
そしてどんどん脳に知識を詰め込みます。
この作業には限りがありません。私も世間のみんなも「脳」を酷使し、脳がぐったり疲れています。
だから、私たちは潜在的に「脳の無い世界」に憧れていて、植物を見ると脳がリラックスするのに違いありません。
イギリスの脳科学者カール・フリストンが唱える「脳の大統一理論:自由エネルギー原理とは何か」(乾敏郎・坂口豊 岩波科学ライブラリ)によると、「人間は将来のサプライズを小さくよう行動する」のです。
それは体内の生理状態の安定を最優先するからです。
そのために不確実性を推定して予測し、行動します。知覚も運動も脳が行う確率に基づく推定作業です。
視覚の場合、その推定を脳はわずか660万画素の網膜への入力情報を元に処理して行います(ちなみにiPhone12の画素数は1200万です)。
脳は、物を見て、外界から入力した感覚信号と予測信号を照ら合わせ、推定・修正を繰り返して誤差を小さくして、外界にある物の像を推定で作り上げます。
だからそれだけでも脳はとても忙しいのです。
まして、堀内さんのように、経済、科学や哲学などの知識を詰め込み、企業や経済、社会の将来まで推定しようとするとなると、脳は大変な量の知識の蓄積と推論の作業を強いられます。
脳が疲れるのは当然でしょう。
植物は脳もないのに(ないから?)、何の不安気もなく、人類以前の何十億年も前から動物以上に繁栄してきました。
「植物は〈知性〉を持っている」によれば、地球上の生物量の植物の割合は99.5%以上です。そして、昔も今も人間は食料、燃料ともに植物に依存しています。それは縄文時代でも変わりませんでした。
「土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎」(竹倉史人、昌文社)では、遮光器土偶など縄文土偶は、クルミや芋などの「植物像」の神話だったという謎解きがなされます。
初耳の話で、ちょっと驚きます。
縄文人にとって、採取した木の実などの植物がいかに貴重だったか、それが神話として土偶に表現されたのです。
植物は動けませんが、植物は「独立栄養生物」なので動く必要がないのです。
動かなければ生存できない動物は「従属栄養生物」なのです。
動かないけれど、樹木はずっと人間に寄り添って生きてきました。
人間の歴史の中で、樹木は、数千年も数百年も同じ場所で人々と一緒に育ち、人間の精神、心を支えてきました。
それは樹木が長年生き続けてきたからできることで、どんな便利な機械でもどんな優秀なAIコンピュータでもまねができません。
太平洋戦争時に、神社や町並木、私人の屋敷まで、全国の村々で、たくさんの樹齢何百年という巨木が、木造船建設ために拠出させられました。
「戦争が巨木を伐った 太平洋戦争と供木・木造船」(瀬田勝哉 平凡社選書)は、その「供木運動」の経過と顛末を丁寧に調査した記録です。まさに「巨木たちのための墓名碑」です。
先祖から代々伝えられてその土地に居続けた巨木を、人々がいかに大切に守り育ててきたか、この本はその思いへの共感に溢れています。
さて、脳のない植物の世界はどうなっているのでしょうか。
植物になってみたら、どんな感じになるんでしょうか。
星野智幸さんの最近の植物小説集「植物忌」(朝日新聞出版)では、肌に植物を植える「スキン・プランツ」や、「植物転換手術」が登場し、長生きのために植物に転換する手術を受ける人も出てきます。
そして、植物になった自分を食べるのです。なんだが気味が悪いけど、今までに経験したことのない(当たり前ですが)奇妙な感覚です。
しかし、私は当面、人間のままでいいです。
脳は苦労させても、たまに散歩や植物でリラックスしてやれば十分です。第一、脳がないと本が読めません。
植物でなくても、のんびりした本は脳を休めてくれます。
高野文子さんの傑作マンガ「るきさん」(ちくま文庫)はおススメの「名著」です。
たわいのない話ですが、面白いし、何より絵が上手い、名人芸です。
役に立つ知識は何も身に付きませんが、脳がリラックスすることは間違いありません。