麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

ハードワークと離婚のミステリー

長時間「労働」は日本の会社の悪しき習性であり、これが改善されない限り、日本の会社・職場で女性が活躍することを期待するのは難しいでしょう。しかし、目標をどこまでも追及して、その成就を目指すには、長時間「仕事」することを厭ってはいられません。

iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、研究者として成功する鍵は「ビジョン」と「ハードワーク」だと教えられ、「難病患者を一人でも多く救いたい」というビジョンのもと、昼夜を分かたず研究に精進するハードワークを重ねて、ノーベル賞の栄冠を手にしました。

ミステリーの世界にも、ビジョンをもってハードワークをものともしない警察官が登場します。ロサンゼルス市警のハリー・ボッシュ刑事(作者マイケル・コナリー)、スゥーデンのヴァランダー警部(同ヘニング・マンケル)、スコットランドのリーバス警部(同イアン・ランキン)は、私の愛読書の刑事たちです。彼らは正義の実現を求め犯人を追いつめる為に、一切の妥協を排し上司との衝突も気にせず、それが目標に到達する唯一の道だ、という信念のもと、頑固で徹底的な捜査をして、勤務時間など度外視した仕事漬けの毎日です。

こうなると、その家庭はどうなっているのか気になります。国も組織も違う彼らですが、家庭環境には「離婚している」という共通点があります。そして、離婚した妻との間に娘が一人、という設定も3人の刑事たちとも同じになっています。

仕事中毒で昼夜を問わず長時間働きつづければ、家庭不和を起こし、加えて頑固な性格で妻と衝突して破綻し、離婚に至る。3人の作者とも、かれらの主人公は「離婚するほどのハードワークだ」と強調したかったのでしょうかが、いささかステレオタイプな扱いですね。

これに対し、英国探偵作家クラブの会長にもなった「ミステリーの女王」アガサ・クリスティの、老婦人探偵ミス・マープルも名探偵ポワロも、生涯独身という設定ですから、家庭の不和は起りようがありません。もっとも、もともと長時間のハードワークも似合いませんが。

もう一人、アメリカで探偵作家クラブの会長になった女流作家のヘレン・マクロイの、探偵役である精神科医ベイジル・ウィリング博士を見てみましょう。ウィリング博士は穏やかな性格、妻と娘が一人という設定で、とても離婚など想定できません。今年2015年9月にちくま文庫から初めての翻訳で出された「あなたは誰?」(who’s calling?)は、クラブ歌手のフリーダが、「行くな」という匿名の電話を無視して婚約者の実家に行くと、そこで殺人事件が起きるというスリリングな展開です。

マクロイが1940年代にアメリカで発表した、この探偵のシリーズが今頃続々と翻訳され出版されています。この「あなた誰は?」は1942年、2013年の「小鬼の市」は1943年、2014年に年間ミステリーベストNo.7となった「逃げる幻」は1945年と、ここ3年立て続けに、まったく新らたに翻訳出版されているのは、マクロイ1940年代の作品です。このシリーズ、2002年「家蠅とカナリア」(原著1942)は年間ミステリーベストNo.4となり、2011年に翻訳された「暗い鏡の中に」(同1950)は2度目の新訳ですが、「当時のアメリカの読者を驚愕させた」傑作だと評されています(杉江松恋「海外ミステリー・マストリード100」日経文芸文庫)。

ドラマティックな舞台設定と行き届いた人物造形、特に女性は個性的で強烈なキャラクターで登場し、かつ女性に対しては辛辣な性格描写がなされます。随所にうまく配置された伏線、こまかな情景描写、心理的な謎解きの巧みな文章がなかなか読ませます。

こんな秀逸なミステリーなのに、なぜいままで日本ではそれほど注目されなかったといえば、ひとえに探偵役のウィリング博士が地味で、目立たない性格だったからではないかと言われています。なぜこういう人物造形にしたのか、せめて名探偵ポワロのように、エキセントリックで目立ちたがり屋の個性的な人物にすれば、人気が出たかもしれません。この点についてマクロイ自身が「ウィリング博士に親しみを感じていた」とコメントしていたというのですから、こういう静かな性格の男性が好みだったのでしょう。

ここからは私の勝手な推理です。クリスティもマクロイも私生活で離婚を経験しています。小説の上でも離婚するような男性主人公のキャラクターや生活を想定するのは嫌だった。だから、クリスティはキャラが立って結婚生活には向かないような名探偵ポワロを独身にし、マクロイは穏やかな人物を主人公にした。そのウィリング博士は、結婚生活も破綻しないような穏やかな性格にしたため、探偵役としては個性的な魅力に欠け、いまいち人気が出なかった、ということではないでしょうか。

もっとも、クリスティやマクロイなら、「離婚自体が他人には判らないミステリーなのだ。頑固な性格やハードワークで一律に離婚に至るというような安易な扱いをしないでほしいものだ。」と、男性作家に注文を付けたかもしれません。ちなみに、前記3人の刑事ものの作者はすべて男性で、しかも経歴を見る限り、みんなきちんと妻がいて離婚した形跡もありません。

ハードワークが離婚に繋がる、とは必ずしも言えません。山中教授には素敵な奥様がいらっしゃって、アメリカでの研究生活時代から「ビジョン」と「ハードワーク」を支えて来られたことは良く知られていることです。

私の事務所の若い弁護士たちも、「困難な法律問題に苦しまないように、できるだけ多くの会社や個人をサポートする」という「ビジョン」をもって「ハードワーク」に取り組んでいます。幸い、理解ある(諦めた?)伴侶を持っているようで、離婚の危機も無く、今日も深夜まで仕事に励んでいます。