「無礼者め!どうしてくれよう」言葉は呪術です。
無礼なメールを受け取って怒り心頭、思わず「無礼者め、どうしてくれよう」と気持ちが昂る、こういう経験は誰にでもあるのではないでしょうか。(私だけか?)
攻撃的で無礼なメールは怒りに点火するだけでなく、さらにその怒りをどう鎮めるかで悶々とさせられて、二重に不愉快です。
反撃のメールを送ると更なる反撃を呼んでキリがありません。
メールの応酬では第三者の判定はありませんから、決着がつきません。
特に攻撃メールを平気で送ってくるような人物は、社会人がわきまえるべきメールのルールを理解していません。
相手がどう受け止めるかに頓着がないのです。
そういう人に「礼節」や「常識」を求めても無駄です。
うかつに反撃できないので、まずはじっと我慢です。
頭ではわかっていても気分は最悪です。
しかし世の中は良くしたもので、そういう時は、心を落ち着かせてくれる本に出合えます。
まず、中野信子さんの「『嫌いっ!』の運用」(小学館新書)。
嫌いな人を嫌いになるのは理由があるから、それでいいんだ。
攻撃的な人は自己評価が低く、それを受け入れがたいので先制攻撃をする、すぐに権威を持ち出す、というのはなるほどと思いました。
もう一冊はクリスティーン・ポラスさんの「Think CIVILITY『礼儀正しさ』こそ最強の生存戦略である」(東洋経済新報社)。
「礼儀正しさ」さえ失わなければ、無礼な人にはきちんと反論していい、自信をもって対応せよ、とアドバイスしています。
怒りのメールを送るとモンスターになるとの警告もあります。
「対話」は、お互いにルールを了解していないと混乱し、論争に歯止めがかからなくなるおそれがあります。
梶谷真司先生は「考えるとはどういうことか」(幻冬舎新書)で、「哲学対話」を提案しています。
そこでは「何を言ってもいい」のですが、大事なルールとして「お互いに否定的態度を絶対に取らない」ことを求めています。
誰かの意見に反対でも、ストレートに否定しないこと。
違う意見を言えばいいのです。
建設的な対話のための知恵です。
思うに言葉はストレートに発せられと、相手を威圧する攻撃的な力を帯びます。
井筒俊彦先生は、どんな言葉にも本来、呪術的力が備わっていると解説しています(「言葉と呪術」井筒俊彦英語著作翻訳コレクション、慶応大学出版会)。
もともと曖昧な心象しかなかった「物」に対して、「名づけ」ることによって、その「物」を把握し支配しようとしたのが「言葉」の始まりです。
幼児が言葉を発する初めての経験では、命令として使います。
幼児が「ママ!」と言うときは「ママ来て!」です。
言葉を発することは、その秘めた力、呪術的効力が発揮されることを忘れてはなりません。
井筒先生は「否定する言葉は、呪術性が強い」とも指摘しています。
梶谷先生の「絶対に」否定的態度を取らない、という禁止ルールはもっともなのです。
呪術は日本で古代、律令の時代から行われ、呪ったり呪われたりすることの効果がリアルに感じられてきました。
「もののけの日本史」(小山聡子、中公新書)には、高僧が密教の真言を用いて「モノノケ」を調伏したことや、芭蕉が発句によって「悪霊」を成仏させた逸話などが紹介されています。
私たちは言葉の呪力を頼りにもしてきたのです。
「まじないの文化史 日本の呪術を解明する」(新潟県立歴史博物館、河出書房新社)は、古代に「厭魅(オンミ、呪いによる殺人)」が処罰され、あるいは藤原道長が呪詛による怨霊に苦しめられたことを伝えています。
また、「蘇民将来」という人名が災いを避ける威力があるとされ、「急々如律令」という呪文によって願い事の速やかな実現が期待されました。
我々も四や九の数字の利用を避けますし、紙や木の「お札」でも呪文の言葉が書かれているからこそを崇めています。
言葉や文字の呪術的力は、今でも私たちの身近にあります。
メールのやりとりでも、言葉の呪術力を考えてから相手に発出しなければ、呪術的力によって余計な紛争を呼びかねません。
呪術の力を、楽しく読ませてくれるのがマンガ「呪術廻戦」(芥見下々、少年ジャンプ連載)です。
大人気で私もはまっています。
呪術師同士の秘術を尽くした戦いは、予測がつかないスケールで展開をして飽きさせませんが、もう一つの魅力は、呪術師たちが発する「呪術」の言葉「呪文」です。
「澱月」「黒閃亅「茈(ムラサキ)」「領域展延」などの見慣れない呪術の言葉が、迫力ある画面の動きと響き合って、言葉の呪術力を実感させます。
井筒先生にもこのマンガを読ませてあげたかったな、と思いました。