「○に関心おありの方」
三島由紀夫の小説「美しい星」に、新聞に「○に関心のあるかた」と呼びかけたら、この記号を、意図どおり「円盤」と理解した反響があったという話があります。私が呼びかけるのは、「○」に関心のあるかた、です。さて、しかし、○はで私の意図は判りかねますね。「○」はいろんな意味で使われます。オーケーの○、白丸で白星のこと、一重丸で二重丸ではない、伏字の○、ゼロ特に漢数字としての表記で使うなどがあります。このような抽象的な記号には、明確に意味を持たない反面、いろんな思いが込められる、という利点があります。サマセットモームが長く不在の間に妻に出した手紙は「、」だけだったそうですが、この記号だけで、双方に、言葉にできない、言葉を超えた一つの気持ちを共有させた、ということでしょう。
私の今日の話題は、漢数字としての○です。
今では裁判の書類も縦書きでなくなったので使わなくなりましたが、我々法律家は縦書きでは、数字は例えば「二十二」を「二二」、「三十」を「三○」と表記しました。これはなるべく字数を少なくする工夫であるらしい。確かに壱千九百九拾八年は、一九九八年となり、3字少なくて済むし、見た目もごちゃごちゃしません。いかにも効率重視を要請された法律文書らしい。十も○も一字で字数は同じですが、算用数字を縦書きにした表記、として一貫しようとすると、十は「一○」となります。しかし「お言葉ですが・・」の高嶋俊雄さんによると、そもそもこのような表記は本来の日本語表現にない。「娘二八は二九からず」の二八とは2×8=16歳、二九は18歳のことであって、28歳19歳のことではない、第一それでは意味が通らない。最近では毎日新聞や金融法務事情のように、新聞や雑誌の縦書き記事の中に、もろに算用数字が用いられる例も少なくありませんが、見た目もここまで徹底した方が読みやすい。こうなると漢数字としての「○」は、肩身が狭く、その役目での出番はますます少なくなるでしょう。
ところで○はそもそも漢字なのでしょうか?手元の角川漢和中辞典には「○」は出てきません。阿辻哲次さんの「漢字三昧」(光文社新書)によると、悪名高い則天武后は自ら漢字を造った、とあります。そこで「○」は「星」の字と定められた。彼女の作った漢字で今でも残るのが、水戸光圀の「圀」で、彼女は、本来の「国」という字は、玉が囲まれているのが気に食わない、彼女の国は世界の八方を囲むものである、としてこれを造った、とあります。中国古代の歴史を見ると、権力を握った男性はまず、壮大な宮殿を造り、美女数百人を侍らせる、といったところ。女性は権力を得ると何をしたくなるのか?則天漢字は、今でもあるアイデア漢字の類ですが、これを歴史上も通用させたいというのは、可愛いげはありますが、野望と言えばこれ以上の野望はないでしょう。○を星という字にした、ということ自体は、あるいは○にとっては、意味を貰って幸いだったかもしれませんが、仲間内の遊びごとならいざ知らず、権力でこれを強制されば、○本来の自在さがなくなり、こんな味気ないことはありません。
○には、いろんな自由があるのがいいのです。よく「○○」は「××」だ、と使われますが、わかる人は判る、わからない人にはさっぱり、というこんな使い方ができなくなってはつまらない。漢数字としての○の行き場がなくなっても、○はなんにでもなれるのですから、○は不滅です。わざわざ私が確認するまでのことではない、のですが…。
「世の中に片付くなんてものは、殆どありやしない」(漱石「道草」)。それでも解決したいというのが弁護士の仕事ですが、あせったからといってうまくいくとは限らない。たまには漱石に倣って道草でもしてみましょう。