「天才・裁判官と秀才・弁護士」
判決書には裁判官の天才を見たい、と切実に思います。天才とは、秀才がいくら努力をしても達しない高みにあるものです。つまり、程度の差でない、質的な差です。
裁判の場では、弁護士がどんなに素晴らしい書面を書いても、判決にはなりません。判決という公的な効力の担保された書面は裁判官しか書けません。その意味で、弁護士はどんなに努力しても決して判決にはたどり着けません。判決は、そういう高みにある書面です。弁護士からすれば、勝っても負けても、判決書の記載が、弁護士の達したレベルを質的に凌駕して欲しい、つまり天才の仕事であって欲しいのです。
秀才といえば立花隆さんです。立花隆さんの「ぼくの血となり肉となった500冊、そして血とも肉ともならなかった100冊」(文芸春秋社2007.1)を読むと、この人の勉強好きは桁外れだと思います。茂木健一郎さんは、才能があることの証拠は「過剰である」ことだ、と指摘していますが、例えば、1冊の本を書くのに100冊が必要という立花さんの撤退した調べぶりは、氷山が、ホンの一角しか海上に現れないように、海面下の「過剰な調査」の膨大さが必要だという認識をしているからでしょう。確かにすごい才能です。しかし、立花さんの仕事は、天才に肉薄するけれども、天才の域には達していない、いわば、ゼノンのパラドックスの中のアキレスのように、その努力が過剰であればあるほど、どうしても一線を超えられない、秀才の過剰な努力の限界を感じます。貶しているわけではありませんよ。そういう点は、判決書を書けない弁護士の仕事に似ている、いくら努力しても立派な準備書面を書いても、決して判決書にはなれない。結果に反映されないかもしれない、過剰な努力をするのが、弁護士の仕事で、秀才の仕事ぶりに似ている、と思うのです。
一方、天才といえば私には山田風太郎がうかびます。「魔界転生」などの忍法帳にしろ、「警視庁草子」などの明治ものにしろ、出来上がった作品世界の、完成度と独自性は屹立しています。天才の仕事は、すべてまず、作品があった、という感じさせるものです。様々の作為を弄した跡や製作過程の苦悶の痕跡が残っていないのです。過剰な製作努力のあとなど微塵も感じさせません。ゲーテの「天才とは努力し得る才である。」という言葉を引用し「天才は努力を発明する」(モオツァルト)など天才に関する文章を多く残した小林秀雄が、文章が書けなくて、苦しい苦しいと這いずり回っていたというのは、有名な話ですが、彼も秀才の典型でしょう。吉行淳之介が、文章を書くのが苦痛ではないと言い放った山田風太郎に絶句した、というエピソードがありますが、ここにも山田風太郎の天才を見る思いがします。立花さんは、フィクションは時間の無駄だから読まない、と言い放っていますが、フィクションは確かにあってもなくてもいい代物で、おそらく天才でなくては意味のある仕事はできないでしょう。例えば、私が最高の小説の一つだと思う、ジュリアン・グラックの「シルトの岸辺」(ちくま文庫)を読めば、「天才しか創り上げられない世界に浸れた」という満ち足りた充実感があります。
裁判官にとっての判決も、誰でも書けるものではありません。そういう意味で我々は判決書に作品としての完璧さを期待します。確かに、すごい判決にあたると、天才の作品に出会ったと感じます。くだらない小説ほど時間の無駄だと思うことも多いわけですが、論理力も論証も無く、文章も格調がない判決は、これより劣ります。裁判官は天才が要求されている小説家と同様に、きちんとした完璧な世界が描けなくてはなりません。
しかし、残念ながら最近の判決書に天才を見ることが少なくなりました。負けても納得せざるを得ない、勝っても論証力に感嘆する、そういう判決書を期待していますし、裁判官は天才の仕事を目指すべきです。もちろん秀才の仕事を目指さない弁護士も論外です。